黒井千次の文学

<「黒井千次」の誕生>

 1932(昭和7)年5月28日に高円寺で生まれた長部舜二郎は、幼少年期を大久保で過ごし、戦争末期は空襲を避けるために大久保から中野へ、中野から小金井へと住まいを西方へと遷す。敗戦を小金井で迎え、敗戦後は、疎開者たちの帰京に押し出されるようにしてさらに西進し、中学から高校にかけての青春前期を府中周辺で送る。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が解任されて離日した年に大学に進学。GHQに接収されていた神宮外苑や両国国技館、帝国ホテルなどが解除となる翌年5月には、メーデーに参加。東京が本格的に復興の道を歩みはじめると、今度はふたたび東中野へと東進する。東中野は「学生時代に住み、地方暮しの時には帰京する家があり、やがて結婚して一間のアパート生活を始めた土地でもあった」(「西郊の眼」)とのちに彼はふりかえっている。「黒井千次」の名で「青い工場」を『新日本文学』(1958・2)に発表したのは、就職して東京を離れ、その東中野を帰省先とする「地方暮し」のときのことであった。慣れ親しんだ中央線沿線や多摩を離れ、かつての大久保や中野といった場所があらためて原風景として立ち現れるようになり、そうしたイメージがある焦点を結ぶのと軌を一にするようにして作家「黒井千次」が誕生したとみることもできるだろう。

<西郊の〈武蔵野〉>

 黒井千次は、大久保を「新宿郊外」と呼び、大久保を基点にして中央線を西側に進んだ一帯を「西郊」と呼んでいる。そしてこの「西郊」に、みずから親しんだ「武蔵野」があると認識する。 いつ頃から「武蔵野」という言葉による心象地理を明確に描くようになったのかについては、もう少し調べてみないとわからないが、少なくとも、会社や工場といった労働の現場を舞台にした初期の小説から家族小説へとその作風を移行し、さらに自伝的小説を発表するようになってからの作品には、自覚的に「武蔵野」を描こうとする姿勢がみてとれる。それが、連作『群棲』(1981年~1984年)と、その完結を待って書き継がれることになる短篇集『たまらん坂』(1982年~1988年)につながるのではないだろうか。平成に入ってからの黒井は、前掲「西郊の眼」(1991年)や「傷心と観察と歩行」(1999年、自筆原稿を展示)などで、国木田独歩「武蔵野」の解説をおこない、またその他の近代の〈武蔵野文学〉の系譜に言及している。その姿は、現代の〈武蔵野文学〉をひきうけようとしているようにも見える。

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自筆原稿「傷心と観察と歩行」(『近代日本文芸のすすめ』所収)
岩波文庫別冊 1999(平成11)年5月

『近代日本文学のすすめ』は、30人の執筆者による近代日本文学についてのエッセイ集である。黒井千次が担当するのは、国木田独歩の『武蔵野』。〈内部の苦しい体験と外部に向けて観察との緊張を孕んだ均衡こそが「武蔵野」に生命を吹き込み、いいようのない懐しさと自然に身を浸す癒しの歓びを生み出している面があったに違いない。〉という指摘や〈秀逸な文体〉への評価など、作品の特徴を数多く挙げており、絶好のガイドブックになっている。個人蔵

<『たまらん坂』の世界>

 「武蔵野短篇集」という副題がついている『たまらん坂』は、「たまらん坂」「おたかの道」「せんげん山」「そうろう泉園」「のびどめ用水」「けやき通り」「たかはた不動」という七篇の短篇か らなる。その舞台はいずれも黒井千次にとっての武蔵野だということができる。また、結果として、武蔵野という〈場所〉を方法としてつくった小説集だと言いかえることもできるだろう。武蔵野という〈場所〉は、山田美妙や田山花袋、佐藤春夫から坂口安吾や太宰治を経て、村上春樹や山田詠美に至るまで、多くの作家の作品に書き込まれてきた。黒井千次自身が挙げているのは、国木田独歩「武蔵野」(1898年)、大岡昇平『武蔵野夫人』(1950年)、井伏鱒二『荻窪風土記』(1982年)、三浦朱門『武蔵野インディアン』(1982年)だが、『たまらん坂』(1988年)は、そうした〈武蔵野文学〉の系譜に連なる作品ということになる。ぜひ、読み比べた上でそれぞれの〈武蔵野〉と対照させてほしい。
 武蔵野で生まれ、武蔵野で育った黒井千次は、武蔵野に居をかまえ、武蔵野を歩いてきた。武蔵野の地が育んだ文学者として武蔵野の教壇に立ち、小説によって武蔵野を描き出した。近代〈武蔵野文学〉史の上に新たな「武蔵野」をつくりあげた現代〈武蔵野文学〉の担い手は、今も私たち読者に新作を届けてくれるのだ。ここでは、黒井千次の豊かな文学の一端をご紹介したい。

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自筆原稿「おだかの道」
『海燕」1985(昭和60)年11月掲載。
『たまらん坂 武蔵野短編集」では2番目に所収。

<『たまらん坂』>

 黒井千次の『たまらん坂 武蔵野短篇集』には、福武書店版(1988・7)と福武文庫版(1995・7)と講談社文芸文庫版(2008・7)とがある。初出は次のとおりである。
 ・「たまらん坂」 『海』 1982年7月号
 ・「おたかの道」 『海燕』1985年11月号
 ・「せんげん山」 『海燕』1986年4月号
 ・「そうろう泉園」 『海燕』1986年11月号
 ・「のびどめ用水」 『海燕』1987年1月号
 ・「けやき通り」 『海燕』1988年1月号
 ・「たかはた不動」 『海燕』1988年5月号

 短篇集の総題にもなっている「たまらん坂」は、「たまらん坂」の〈由緒〉を語る一種の由来記のような性格をもった小説である。由来記といってもそれは、古式ゆかしき伝統や、やんごとなき起源を説明するものではない。むしろ、それらの否定を前提にしてこの武蔵野短篇集は成り立っている。すなわち、歴史的事実を唯一の事実とする歴史記述、由緒を必要とする為政者による認定作業、経緯や意味を一元的に確定する漢字による命名といった、権威とは無縁の場所を、強い愛着によって肯定するような柔らかな意志によって全篇が貫かれているのである。
 〈武蔵野〉は、奈良や京都のような古都の香りもなく、日本橋や浅草のような名所旧跡もない場所である、そう認識した上で、その無名性をこそ積極的に捉えて舞台化しているのである。
 「たまらん坂」の冒頭は、登り坂と降り坂と、日本にはどちらが多いか知っているかい〉と〈要助〉が〈私〉に坂について問いかけるところから始まる。その〈要助〉が、〈私〉に、たまらん坂〉をめぐる思い出や調べた結果を語り、最後にまた聴き手の〈私〉が感想を述べて終るが、小説の大半を占めるのは、電車の中で十数年ぶりにばったり出会った旧友〈要助〉の話である。〈要 助〉が坂にとりつかれるきっかけは、「道端のありふれた風景」でしかなかった看板に平仮名で記された「たまらん坂」という「黒い文字」が、ある夜、「多摩蘭坂」という漢字とともにあったそれまでの「風景」を彼の中で一変させたことである。「武蔵野短篇集」として編まれた作品のタイトルのすべてが、平仮名で記された地名であることの理由がそこにある。
 たまらん坂は、作品においても、現実においても、バス停などで〈多摩蘭坂〉という漢字が宛てられている地名である。しかし、小説内では、本当は〈堪らん坂〉かもしれない、わからん坂〉である、として物語が発動する。同様におたかの道も、〈お鷹の道〉ということになっているが、〈真吉〉にとっての〈おたかの道〉は〈お多加の道〉であり〈多加子の道〉であった。〈辰造〉は、せんげん山のことを、その形状から〈古墳〉だと思い込んでいたが、実際は〈無理やりに作り出された引き算の山〉にすぎなかった。そうろう泉園(浄浪泉園)も、のびどめ用水(野火止用水)も、けやき通り(欅通り)も、それぞれ新聞や案内板などに記される類の由来がないわけではなかったが、それらは誰もが認め共有する観光資源とは程遠いものであった。逆に言えば、誰もが自前の解釈をほどこすことのできる敷居の低い地名であった(掉尾の「たかはた不動」だけが、比較的よく知られた地名であり、作中でもそれを意識してか、冒頭から〈高幡不動〉として登場する)。
 ある場所をめぐる記憶は、本来、無数にあり得る。ひとつの土地に纏わる伝説(エピソード)も同様である。記憶や伝説(エピソード)は、新たに誕生する可能性をもっている。地名もその〈由緒〉も、有名性や権力の外側にあることにより、生活者を縛ることなく、自由にそこに在りつづけることができるのである。
 〈光景〉は月並みでも、その空間に個人的で切実な時間が折り重なる。そのような時間が想起されることにより、何気ない日常においても、〈風景〉は別の顔を見せ始める。『たまらん坂』における〈武蔵野〉とは、そのような場所なのではないだろうか。
 武蔵野文学館では、教育研究事業の一環として2015年から「たまらん坂」を映画化する試みを開始し、2019年春に完成。7月にはマルセイユ国際映画祭インターナショナルコンペティション部門でワールドプレミア上映を果たす。同作には黒井千次自身も出演している。
(土屋忍)

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署名入り『たまらん坂 武蔵野短編集』
(1988(昭和63)年7月 福武書店)
2010(平成22)年7月20日に著者が文学館
準備室を訪れた際の、記念の署名。

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写真左上:『たまらん坂 武蔵野短編集』
(1995(平成7)年7月 福武文庫)
写真右下:『たまらん坂 武蔵野短編集』
(2008(平成20年)7月 講談社文芸文庫)

<武蔵野女子大学との関わり>

〜黒井千次「武蔵野の大学の歳月」より

 それにしても、七十代の前半にこの大学で時を過ごす機会を得られたのは幸せであった。学校が家からっさん十分ほどの距離にあるのもありがたかったし、また普通ならなかなか接触することもない二十歳過ぎくらいの若い女性達に会い、その考えや学生々活の一端を垣間見ることが出来たのも、現代というものにじかに触れるようで興味深かった。
 とりわけ面白かったのは、女子大学が共学となり、途中から男子学生も出現するに至った変化であった。教室で直接男子と顔を合わせたのは三、四年生に限られたが、女子学生のみの場合とはいささか異なって来るのが感じられた。(…)
 創作指導をかかげるゼミや教室で難しかったのは、ただ、面白い話を求めてファンタジーの方向へ傾きがちな書き手達を、いかにして文学の領域の一つである小説の世界に向き合わせるか、出会った。(…)
 小説の創作ゼミが抱えるより本質的な困難としては、参加している書き手の学生達が<書く>ことをどこまで真剣に考えているかが掴みにくく、また単位の対象としての創作にそこまで深刻な<書く>行為を求め得るのか、という問題であった。
 例えばカルチャーセンターの創作教室であったなら、とにかく<書く>ことを求めて生徒は焦って来る。結果はともかくとして、小説を描こうとする人々の集団がそこにある。
 しかし大学の創作ゼミはカリキュラムの一部としての演習であり、小説を<書く>というより、<書いてみよう>とする学生達の集まりである。いわば、一般教養課程の一部として<創作>がある。文章表現を学ぶのであればそれもいいけれど、小説を書こうとする全身運動はどうも教養課程には馴染まぬような気がしてならない。
 どこまで学生に求めていいのか見当がつきにくいので、あまり具体的な要求はしないことに決め、その代わり小説を書くとはどういうことであるかについては、聳える山について限りなく厳しく語るように努めた。わかっても、わからなくても良い。ただ、何か一つひっかかるようなものが演習室を出て行く身体の中に残れば良い、と考えた。
 実際にそんな勝手な夢が叶うとは思わない。しかしこちらの願望が、学生時代など忘れた頃になってふと思い出される折くらいあっていい、と思ったりする。(…)
 教員としては十分な成果をあげることが出来なかったが、武蔵野女子大から武蔵野大学にかけての6年間にこちらが学ぶことを得たものは大きかった。様々な意味での現代の一場面に大学の中で出会った。
 いつも会議ばかり開いている多忙な先生方にもいろいろ教えていただいた。水が流れるようにはいって来て出て行った大学生の皆さんの足跡は、こちらの胸に様々な形で残っている。
 武蔵野大学で過ごした日々に深い感謝を申し上げる。


(「武蔵野日本文学」17号、2008年3月)

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黒井 千次(くろい せんじ)
1932(昭和7)年東京生れ。1955年東京大学経済学部卒。1970年『時間』で芸術選奨新人賞を受賞。1984年『群棲』で谷崎潤一郎賞、1995(平成7)年に『カーテンコール』で読売文学賞、2001年に『羽根と翼』で毎日芸術賞、2006年に『一日 夢の柵』で野間文芸賞を受賞。主な著書に『時の鎖』『走る家族』『五月巡歴』『春の道標』『たまらん坂』『高く手を振る日』『老いのつぶやき』などがある。

たまらん坂を書くまで
(平成22 年度武蔵野市寄付講座「武蔵野の記憶と現在-日本語・日本文学科からの第 2 信-」第 15 回( 2010 年 6 月 28 日・武蔵野大学)における講演)

 「たまらん坂」という坂の名前が出てきたのは、書物でもなんでもなくて、実際に車が走っているときに見た駐車場の看板なんですね。その名前が、どうしてかわからないけれども「たまらん」が平仮名だったんですよ。そのそばに「たまらんざか」というバス停があるんですが、そこは「多摩蘭坂」と書かれています。
 なんかその「たまらん」という字が”たまらない”という感じに飛び込んできちゃったんです。たまらない坂というのは一体なんだろう。
 ”たまらない”どいうわけか知らないけれど、”たまらない坂”なんだと思った方が面白いのではないかと思っていたわけです。そういうことを思ってまして、土地をベースにした短編をいくつか書いてみようと考えていた時に、その坂を上り、坂を下るという上り下り、高い土地と低い土地をつなげる道というものを”たまらん”という形で表現するとしたら、どういうことになるのかということを、一生懸命考え、それが「たまらん坂」という小説を書いてみようとしたモチーフ、きっかけになっているのです。

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『武蔵野文学館紀要創刊号』より

講演録

小説の浮力と自重

・武蔵野大学 創作のススメ(2007年10月31日)

年譜

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講談社文芸文庫

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講談社文芸文庫

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講談社文芸文庫

1932年 5月28日、東京府豊多摩群杉並町大字高円寺620番地(現・杉並区高円寺)に生まれる。
1937年 淀橋区西大久保(現・新宿区大久保)に住む。
1939年 4月、豊島区立高田第五小学校に越境入学。
1944年 8月、長野県下高井郡平穏村の上林温泉に学童集団疎開。
1945年 3月、中学進学のために帰京。4月、東京都立武蔵ヶ丘中学校に入学。6月、都下小金井に移転し都立第十中学校に転校。12月、府中に移転。
1948年 この頃より学校の友人達と作った同人誌『ひとで』に小説の習作を載せる。
1949年 4月、『蛍雪時代』学生懸賞小説に応募した「歩道」が二等に入選、初めて小説が活字になる(全文掲載は5月)。
1950年 都立第十高校(旧都立第十中学校)は都立西高校と改称。8月、中野区塔ノ山町(現・中野区本町)に移転。
1951年 3月、都立西高卒業。4月、東京大学教養学部文科一類に入学。
1952年 5月、メーデーに参加(皇居前広場における「メーデー事件」)。
1953年 4月、経済学部経済学科に進む。横山正彦助教授の経済原論のゼミに所属。
1955年 3月、東京大学経済学部卒業。4月、富士重工業株式会社に入社。群馬県伊勢崎製作所勤務となり、寮生活。
1958年 2月、「黒井千次」のペンネームで「青い工場」を『新日本文学』に発表。6月、「メカニズムNo.1」を『文学界』に発表。
1959年 11月、富士重工業本社への転勤により帰京。
1960年 12月、「テレビ独立」を『新日本文学』に発表。
1961年 4月、「ビル・ビリリは歌う」を『新日本文学』に発表。5月、黒川千鶴と結婚、この頃、執筆用の万年筆を購入。
1968年 3月、「聖産業週間」を『文芸』に、9月、「穴と空」を『層』七号に発表。「穴と空」は昭和43年度下半期芥川賞候補となる。
1969年 2月、「時間」を『文芸』に、3月、「騎士グーダス」を『文学界』に、6月、「空砲に弾を」を『文芸』に、「灰色の記念碑」を『新潮』に発表。「時間」は、昭和44年度上半期芥川賞候補となる。8月、第一作品集『時間』を河出書房新社より刊行。9月、「花を我等に」を『文芸』に、11月、「星のない部屋」を『文学界』に、12月、「時の鎖」を『新潮』に、「首にまく布」を『新日本文学』に発表。この年、「時間」によって昭和44年度芸術選奨文学部門新人賞(第二十回)を受賞(授賞式は翌年3月)。
1970年 1月、『時の鎖』を新潮社より刊行。3月、富士重工業(最後は宣伝部に所属)を退社。以後文筆生活にはいる。4月、「赤い樹木」を『文学界』に発表。以降、精力的に作品を発表する。
1971年 12月、第一エッセイ集『仮構と日常』を河出書房新社より刊行。この年、小田切秀雄により初めて「内向の世代」という一群の作家を指す用語が提示され、話題となる。小田切によって、具体的に挙げられた名前の中には、秋山駿と黒井千次の名前もあった。
1972年 4月、「夢のいた場所」を文藝春秋より刊行。
1977年 2月、『五月巡歴』を書き下ろしで河出書房新社より刊行。
1979年 8月、戯曲『家族展覧会』を集英社より刊行、9月、「家族展覧会」が劇団民藝によって上演される。
1980年 9月下旬から10月中旬にかけて20日間、日本文芸家協会訪ソ作家団に加わってソビエト連邦を訪れる。11月、「春の道標」を『新潮』に発表。
1981年 6月、「石の話」を『新潮』に発表。連作小説「群棲」にまとめられる小説を『群像』に発表し始める。第1話は8月、「オモチャの部屋」、第2話は10月、「通行人」。
1982年 2月、ノンフィクション『記録を記録する』を福武書店より刊行。3月、体験的エッセイ『働くということ』を講談社現代新書に書き下ろして刊行。7月、「たまらん坂」を『海』に発表。
1983年 9月中旬より15日間、日中文化交流協会の訪中作家代表団(団長・水上勉)に加わり中国を訪れ、以後、訪中を重ねる。
1984年 2月、「訪問者」(第12話)を『群像』に発表して「群棲」完結、4月、『群棲』を講談社より刊行。同書により、第20回谷崎潤一郎賞を受賞。5月、訪中作家代表団の共著『中国 心ふれあいの旅』(水上勉、中野孝次、井出孫六、黒井千次、宮本輝、鄧友梅、陳喜儒)を桐原書店より刊行。7月、『永遠なる子供エゴン・シーレ』を河出書房新社より、9月、ショート・ショート集『星からの1通話』を講談社より刊行。
1985年 11月、「おたかの道」を『海燕』に発表。
1986年 前田愛に頼まれ、立教大学の非常勤講師として「現代小説論」を担当。4月から1年半)。
1987年 2月、戯曲「離れのある家」を『群像』に発表、劇団民藝により上演される。11月下旬から14日間、外務省派遣の文化使節団(団長・團伊玖磨)に加わり、ユーゴスラビア、東ドイツ、ポーランド、ハンガリーの四ヵ国を訪問。この年の上半期より芥川賞選考委員となり、現在に至る。
1988年 5月、「たかはた不動」(第7話)を『海燕』に発表して、「たまらん坂」完結、7月、『たまらん坂(武蔵野短編集)』を福武書店より刊行。
1990年 この年に講談社ノンフィクション賞の選考委員となる(~2007年)。また、同年に創設された伊藤整文学賞の選考委員となり、現在に至る。
1994年 9月、『カーテンコール』を書き下ろしで講談社より刊行、同書にて、第46回読売文学賞を受賞。
2000年 6月、第36回日本芸術院賞受賞。7月『羽根と翼』を講談社より刊行。この年に創設された親鸞賞の選考委員となり、現在に至る。
2001年 1月、『羽根と翼』により、第42回毎日芸術賞を受賞。
2002年 秋山駿に頼まれ、4月より武蔵野女子大学客員教授となる。「小説の鑑賞と創作」などの教科を教えるとともに、武蔵野文学賞の選考委員となる。6月、日本文芸家協会理事長に就任。
2003年 10月から12月まで『群像』の「文芸時評」を担当。
2004年 8月、『日の砦』を講談社より刊行。
2006年 1月、『一日 夢の柵』を講談社から刊行。4月から6月までNHKラジオ第2放送「こころをよむ」シリーズで「老いるということ」を語る。そのテキスト『老いるということ』を4月、NHK出版より刊行。6月、日本文芸家協会理事長任期満了。11月、ラジオの手k市宇都に加筆した『老いるということ』を講談社現代新書として刊行。12月、「一日 夢の柵」により第59回野間文芸賞受賞。
2008年 3月、「小説の浮力と自重」を『武蔵野日本文学』に発表。定年により、武蔵野大学(旧武蔵野女子大学)を退職。4月、旭日中綬章受賞。
2010年 3月、『高く手を振る日』を新潮社より刊行。4月、『老いのかたち』を中公新書より刊行。6月28日、武蔵野市特別講師として、「『たまらん坂』を書くまで」と題する講演をおこなう。7月30日、武蔵野文学館準備室を訪問。著書の一部を同準備室に寄贈。同準備室で本展示の実現に協力。9月29日、武蔵野大学の講演講座「創作のすすめ」で「小説の生まれる場所」と題する講演をおこなう。10月22日~24日、武蔵野大学摩耶祭にて、武蔵野文学館準備室有志により、企画展「土岐善麿・秋山駿・黒井千次-武蔵野の教壇に立った文学者-」が開催される。12月、『時代の果実』を河出書房新社より刊行。
2011年 10月、『散歩の一歩』を講談社より刊行。
2012年  5月、『老いのつぶやき』を河出書房新社より刊行。
2013年  4月、『生きるということ』を河出書房新社より刊行。
2013年  8月、『漂う 古い土地 新しい場所』を毎日新聞社より刊行。
2014年 10月、『老いの味わい』を中公新書より刊行。
2015年 6月、『老いへの歩み』を河出書房新社より刊行。6月14日、西東京市公民館で催された鼎談「玉川上水と文学」(大和田茂と土屋忍と)に出席。この日、「たまらん坂」の映画化が決まる。
2018年 10月、『流砂』を講談社より刊行。
2019年  2月、黒井千次『働くということ』を原作とする漫画が、池田邦彦のビジネスモーニング1として講談社より刊行。2月28日、新宿武蔵野館で催された黒井千次「たまらん坂」を原作とする映画「たまらん坂」の特別試写会に出席。6月、『老いのゆくえ』を中公新書より刊行。
(土屋忍編)


以上、武蔵野文学館編『土岐善麿・秋山駿・黒井千次 武蔵野の教壇に立った文学者』増補版(2011年5月)による。

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