わが心静かなるかなた
閼伽あかたてまつ
りみ墓と語る

昭和戦前期、初冬のある晴れた日に、森鷗外の妹が三鷹の禅林寺を訪れて詠んだ歌です。鷗外を「お兄様」と呼び敬愛していた妹小金井喜美子(1870〜1956年)もまた文人でした。翻訳を発表し随筆を書き、歌を作りました。

喜美子には、静かなる武蔵野を訪ねて久しぶりに森家のお墓におまいりし兄や父を追慕する「墓参」という作品がありますが、この歌は、その掉尾とうびを飾っています。永井荷風が禅林寺を初めて訪れたのは1943年でしたが、この時の喜美子の墓参は、それより少し前のことだったと推測されます。

「墓参」には「昔天明の大火にあい、お寺が江戸からこの連雀村へ引移った頃の武蔵野の景色は、どんなでしたろうと思われます。震災後森家のお墓を向島からここへ改葬した時にはひどく荒れていましたが、今は本堂、鐘楼、庫裏までさっぱりと改築出来ました。」と記されています。「新開」で「すすきの穂が原いっぱい」のところに「栗の落葉」が散る風景も描写されています。三鷹駅の設置に尽力するなど境内だけではなく一帯に心を配ってきた禅林寺に寄りそうような筆致です。

喜美子が語り合った「み墓」には、「中村不折氏」の筆跡で「森林太郎墓」と刻まれています。中村不折は日本を代表する洋画家・書家で、子規や漱石、鷗外らと親しく交わりました。不折は鷗外の遺言に基づき、揮毫きごうしています。その見事な墓碑銘の前では、襟を正さずにはいられない人も少なくないのではないでしょうか。