古来欧州や中国には、文人政治家の伝統があります。日本は近代でその伝統が途絶えてしまいますが、文人科学者の系統が生まれます。明治以来、特に医学者であり文学者である人物が多く、その始祖となるのが森林太郎(鷗外)です。

石見国津和野(島根県)で生まれた欧外(1862~1922)は、10歳で父とともに上京し、学問を修めます。軍医としてまた作家として、苦悩しながらも最先端で活躍し、ドイツ留学や台湾や倉での勤務を経ますが、人生の大半を東京で過ごします。30歳で構えた自宅(千駄木の観潮楼かんちょうろう)で60歳の年に最期を迎え黄檗宗おうばくしゅう(墨田区向島)に埋葬されます。

1927年(昭和2年)、森家の墓地は弘福寺こうふくじから禅林寺にうつされます。関東大震災の影響により移葬されたともいわれています。ですが、震災の翌年にも鷗外墓を詣でている文人永井荷風(1879~1959年)の日記(『断腸亭日乗だんちょうていにちじょう』)を読むと、「弘福寺焼跡は一面の花畑となり」とあるものの、墓地に変化があった様子は見えません。また、文学散歩の第一人者である野田宇太郎の聞き取り調査によると長男の森於菟もりおとが同宗門での改葬を住職に相談しており、特に中央線沿線の武蔵野の三多摩周辺を希望し、禅林寺に決まったそうです。

その頃には弘福寺も再建されていましたので、遺族の希望により武蔵野三鷹への移送が実現したと言ってもよいのではないでしょうか。

43年(昭和18年)、鷗外を師と仰ぎ敬愛する荷風は、鷗外展墓のために、生まれて初めて三鷹駅に降り立ちます。