森鷗外に私淑していた永井荷風は、「文学者になろうと思ったら大学などに入る必要はない。鷗外全集と辞書の言海とを毎日時間を決めて三四年繰り返して読めばいい」と記しています。その荷風に鷗外「危篤の由」を伝え、「鷗外先生全集刊行のこと」について相談したのが歌人の与謝野寛でした。寛にとっても鷗外は生涯の師として大きな存在でしたので、歌の中では「大人」とも呼んでいました。
1922年(大正11年)の7月12日夜、葬儀の諸事を終えた寛は、41の哀悼歌を一気に歌い上あげます。「先生は饒かに満ちし生なれど足らぬ我等を憐れみたまへ」「寛われ唖ならねどもこの大人の御前にあれば言葉無かりし」「葬の事やうやく」果てて圧へたる内の涙の迸り出づ」などを詠み、3作を加えた計44作を「涕涙行」として文芸雑誌『明星』に発表します。
与謝野寛の妻晶子にとっても鷗外は「先生」でした。逝去した8日後には「森先生の事ども」という追悼文を『横浜貿易新報』に発表しています。どれだけ忙しくても丁寧に勉強を教え、子からも敬愛された父としての鷗外像を描くもので、良妻賢母主義の悪癖を説き女性の自立と父性の重要性を強調した晶子らしい内容でした。
1930年(昭和5年)、三鷹駅が竣工してまもなく、寛と晶子は鷗外墓を訪れます、寛は「むさし野の西に同じく住む身には隣のごとし大人のおん墓」「わが妻も大人を敬ふ眉きよきわかき二人もをがむおん墓」など10の追悼歌を詠みました。
荻窪で暮らしていた二人は、師が同じ「むさし野の西」に住まうことにご縁を感じていたのです。