秋山駿の文学
<批評へ>
私とは何か
秋山駿の原点は、道端に光る一つの「石ころ」である。 15歳で経験した敗戦と焼け跡の光景が、確実なものなど何一つないことを教えたのだ。「私」の生存がただ在るという現実の中で、歩くという最も単純な行為をするほかになかった少年にとって、「私」とは打ち棄てられた無意味な「石ころ」に過ぎなかった。 確かな「私」 というものはない。あるのは、愚かで曖昧で無形の「私」である。 以後、秋山駿はただひたすらに、〈私とは何か〉という問いを発し続けている。
ランボオ、ドストエフスキー、デカルトに始まる無限の書物の 渉猟。歩行の途中に立ち寄った古本屋で手にした彼ら先人の言葉 は、いつしか思考の道標となる。
ある時一つの「石ころ」を拾ってからは、他人の「言葉」を離れ、 真に厳密なる「私」の精査を開始する。……ついに「私」が、何よりも堅固で確かな「石ころ」にすらなり得ないと知ったとき、 秋山駿は自らの言葉を書くことで〈私〉を問うた。「石塊にはひとつの物語がある」(『批評派』1952年6月) ー 批評家、秋山駿の出発である。
石ころの言葉を聴く
私がそれほど石ころの言葉を聴くことに固執したのは、私の生の証しが、そこに賭けられていたからである。私は、戦争と敗戦によって、何一つ判らぬままに(何一つ意味づける こともできずに)、無力で裸な生存として、いきなり今日の 現実の中へと放り出された少年であったから、自分の生の証しをまず見出す必要があった。
(「物語の領域」『舗石の思想』)
秋山駿は、歩行の途中に色々なものを拾う。ある発見、ある書物、ある言葉、ある考え。「石ころ」もそのひとつである。考えるとは何か、「私」とは何か?
一塊の石ころこそ、〈無用にして不確実〉な「私」に置き換えられるものである。石ころを眼前に置き、石ころによって「私」 を精査する日々が続く。秋山駿、20歳の頃のことである。
「石塊にはひとつの物語がある」
1952年6月、22歳で発表した秋山駿の最初のエッセイである。友人清水一男の発意によって創刊した『批評派』の巻頭に掲載された。当時を振り返り〈同人一人が三十冊くらいずつ受け持って、必要なところへ郵送することになっていたが、二冊を残して、あとは棄ててしまった〉(「石ころの格率」『砂粒の私記』) とある。後に「私は一つの石塊を拾った……」へ改稿する際に、 削除した後半部分は『人生の検証』の「恋」に引用されている。
机上の八冊
23歳の頃、秋山駿は父母の家で数冊の文庫本とノート、友人からの葉書だけを置いた簡素な空間〈抽象的な部屋〉に住んでいた。最小限度の必要物のみによって生活を構成したのである。
この数冊の本 ー 机上に残された八冊は、石ころと同様、その後の秋山駿の批評活動に大きな影響を与える。
私は思ったのだ。 精神のもっとも貴重なものは、このように、地べたに、人の歩くその足元に、石ころのように転がっているものでなければならぬ、と。
そのときから私は、これからの生の行程には、これだけあればすべて足りる、という本を八冊選んで、机上に置くようにした。
(「路上の『省察』に衝撃、机に選び抜いた八冊」『批評の透き間』)
この時の「机上の八冊」とは次の書物である。
・デカルト『省察』三木清訳 (岩波文庫 昭和24年10月)
・ランボオ『地獄の季節』小林秀雄訳(岩波文庫 昭和13年8月)
・ドストエフスキー『地下生活者の手記』伊吹山次郎訳(春陽堂文庫 昭和23年9月)
・ヴァレリー『テスト氏』小林秀雄訳(創元選書 昭和14年12月)
・スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』阿部敬二訳(冨山房百科文庫 昭和15年10月)
・『プルターク英雄伝』河野与一訳(岩波文庫 昭和31年5月)
・『風土記』武田祐吉訳(岩波文庫 昭和12年4月)
・『中原中也詩集』(創元選書 昭和22年8月)
所有物を持たない〈筒単な生活〉は、「テスト氏」から連想された。それはのちに29歳で開始した〈団地居住〉へと導かれ、選ばれた8冊の書物は文字通りの「机上の八冊」として定着し、最期まで秋山駿の著作に一貫して登場し続けたのである。
ノートへの記録
本を読めば読むほど、私は一つの恐怖に直面することになった。こんなことをしていては、自分がこれらの言葉の何か写字板のようなものになってしまう、
自分が無くなってしまう、「ここには私は存在しない」と、だから二度ほど持っている本を全部捨てようと試みた。(……)
そこで私はノートを書き始めた。
私の言葉を発見するために。それはつまり、私の存在を発見するということでもあった。
(「ノートを書く、とは何か」『地下室の手記』新版あとがき)
秋山駿のノートは、「私」というものへの疑いを石ころへと問いかけた、自問自答の記録である。
石ころは拾ってから約一年後に、ある出来事を機に手元を離れる。だが、その塊は依然として脳裏に刻まれ、歩行の途中に拾われた内面の言葉とともにノートへ記録される。それはのちに「石塊にはひとつの物語がある」へと昇華する。
ノートは20年後に〈カード〉となるまで書かれるが、時に必要な言葉だけを残して破られる。こうした不要なものを棄てるという〈生の綱領〉は、のちの「簡単な生活」に引き継がれる。
「石ころ」を見つめて辿りついた人間の「生」の姿とは、自己をその都度捨て、任意のものに移り変わることであり、時間ごとに「私」を創造することであった。
こうしたかりそめの「私」が営む生活も、やはり仮設的でなければならない。そして選ばれた生活の場が、団地だったのである。
「簡単な生活」―ひばりが丘団地―
簡単に生きる、という言葉が、この私という存在の本質を証しするもののように、一種の必然、あるいは、或る厳かな声の命令のように、私の頭蓋に刻みつけられている。
(「簡単な生活」『抽象的な逃走』)
東京都の西東京市と東久留米市にまたがる地域に、180棟の集合住宅が建ち並んでいる。
1959年に入居を開始した日本住宅公団「ひばりが丘団地」が、秋山駿の選んだ生活の場だ。
公園、商店街、スーパーマーケット、小学校、駐在所、公民館……と、 暮らしに必要なものは団地の敷地内で賄うことができ、当時は珍しかった風呂や水洗トイレ、ベランダも完備された。
洗練された新たな居住空間として流行した団地。しかし、その実体は白い壁とコンクリートの箱の中で営まれる共同生活である。そこには言い知れぬ 暗部が見え隠れする。
普通の生活とは何か? 秋山駿は問う。石塊のような賃貸団地に居住し、普通の生活というものを模倣しつつ、観察したのである。
団地という町。
そこは二十年前には松林だった。樹が引っこ抜かれる。地面がならされる。後にはコンクリートブロックが積まれる。
まるで積み木の家の群れ。玩具の箱庭の風景。それだけだ。何もない。(...)
これは本当の町 - 生きた有機体ではない。
(「団地という町」『簡単な生活者の意見』)
団地の日常とは、均質で、平凡なものである。人々はみな寄せ集まった箱に暮らし、そこに秘密が生れる隙はない。世代を超え受け継がれることもない、仮住まいの住居様式である。
1959年に入居してから現在まで、秋山駿は団地の推移する姿を、〈開拓地〉、〈年増〉の風情、〈還暦〉、そして〈棺〉と言い 表してきた。こうした視点からは、団地が秋山駿にとって安住の場でないことをうかがわせるが、それでもなお居住し続けたのは、団地が秋山駿の目指した生のスタイルと一致するからであろう。
この夜の生活は、自分がなぜ理由もなく生存しているのか、
なぜ理由もなく存在しているのか、を問い、かつ追究するために、しばらく考える猶予がほしい、という必要から生じたものだった。
(「私は他者だ」『砂粒の私記』)
報知新聞への入社から3年。結婚し、懸賞の当選をきっかけに社会的な生活を試みるものとしてはじめられた団地暮らしであったが、その裏側には、家を持たず、子供を持たず、物を持たない、行軍の〈露営〉のような〈仮初の生活〉という目的があった。 秋山駿は「私」を疑い、可能な限り「私」の根源・素地へと近づこうとする。最も簡単で単調な生活がその方法だ。 団地とは、〈私とは何か〉という問いを風化させない場であり、その問いから生み出される批評の発信地なのである。
団地の一室
一つの石ころや、選び抜いた書物に対してそうであったと同様に、秋山駿の「必要なもの」への思考には深度が伴う。
秋山駿の〈考える材料〉と、〈生の全容〉は、この団地の一室 にあるという。
生の発するすべてのものが、いま私の住居している団地のここから発し、ここへと帰ってこなければならぬ。一片の白雲、一葉の枯葉、一匹の城が、この世界の深奥について測り知れざる豊富なものを啓示してくれるであろう。私は自分の住む団地のこの場所が、日本の最も深い処だと思っている。
(「静心なく花の散るらん」『砂粒の私記』)
相容れない空間で思考し続けること50余年。
今やひばりが丘団地のこの一室は、秋山駿の〈必要〉で埋め尽くされている。
中でも、壁という壁を埋め尽くした書棚の本は、歩行で拾い集めたひらめきと共に秋山駿の批評の〈材料〉となる。
武蔵野文学館に寄贈された旧蔵書は「秋山駿文庫」となり、やがて竣工された「むさし野文学館」は、ひばりが丘団地の一室に積まれていた書物によって成り立っている。
<批評まで>
秋山駿におけるノートとカードは、日記や創作メモとして書かれるものではない。内部の声や歩行によるひらめきを記したものである。それらの言葉は、秋山駿の「生」そのものと言ってよいだろう。
ノート
秋山駿が批評家として出発する以前から書きためていたノートは6冊(下記の一~六)ある。うち5冊は「石塊にはひとつの物語がある」(『批評派』1952年6月)の発表直前から、報知新聞社に入社する頃までの期間 (1951年10月~1956年9月)に書かれたものである。1冊は、その6年後に「内部の人間」(『文学者』1963年8月) を発表した時期に書かれたものだ。
一、「覚書I」1951年10月26日~1952年2月20日…【内部の私のノート】
二、「〈−告白〉の試みI」1953年8月~9月…【内部の私のノート】
三、「〈告白〉の試みII」1953年10月~1954年5月…【内部の私のノート】
四、「ただそれだけーあるいは《私をとりかこむもの》あるいは 日記I《私に反対する私・そこに在る私》」1956年1月~3月…【現実の私のノート】
五、「《私を超えるもの》あるいは無用にして不確実な告白」1956年3月~5月…【現実の私のノート】
六、「無題」1962年7月~1963年9月…【内部の私のノート】
6冊のうちの3冊(四、五、六)は『地下室の手記』に収録されているが、他の3冊(一、二、三)は未収録である。
『地下室の手記』以降に書かれたノートは、2012年5月現在連載中のエッセイ「「生」の日ばかり」に引用されている(2010年10月15日のインタビューより)。そのため、秋山駿の第1作が書かれた1951年頃にあたる、初期のノートだけが活字化されていないことになる。
ノートの内容は、1冊ごとに「内面の声」と「実際の問題」とに書き分けられている。【内部の私のノート】は、1日あたりの文量が多く、歩行中の長い夢想が書き留められたかのように連綿と綴られている。日付ごとに筆圧や筆跡が異なっており、破り取られたページの切れ端からはその折々の思考の速度が感じ取られる。
「覚書I」は石塊と対話する〈彼〉の描写で始まり、数ページの空白と、破り取られたページを挟んでから、〈私〉の独白へと移行している。秋山駿の批評は、〈彼〉という他者の観察から出発しているようだ。「私」が「私」を疑うとは、「自明の私」から「私を疑う私」が引きはがされることである。ノート冒頭の、この〈彼〉の描写には、「私とは何か」と疑う「私」が、「私」を〈もう一人の他人〉として掴もうとする意思があらわれている。のちに秋山駿が「私とは何か」という問題を〈彼〉ではなく〈私〉のものとして書き得たのは、こうしたノートへの記録と破乗の反復があったからだろう。
一方、〈現実の私のノート〉は日々の出来事が記録された日記のようなものだが、〈内部の私のノート〉と同様に、破りとられたページがある。
ノートを破るという行為について、秋山駿は〈本当のひらめき〉とそうでない〈ひらめき〉の違いは3、4日経ってから読み返すとわかるものであり、〈本当のひらめき〉でないものは破るのだ、と当文学館がおこなったインタビューの中で教えてくれた。
残されたページの言葉は〈本当のひらめき〉、つまりは〈発見〉である。内部の声も現実の問題も、別次元のものとしてどちらも重要なものであったのだろう。
秋山駿のノートは、のちにカードという形態に変化する。
「カード」
会社を辞めた翌日、私はその一枚を取り出した。表には、私が現実に為したこと、つまりその日の記録、裏には、現実の背後で生じたこと、つまりその日の私の心の声、といったものを記して、一日を、というか、私が生きていることの一日分を、一枚のカードに要約してデッサンするつもりだった。
(「或る決算報告」『舗石の思想』)
「或る決算報告」によると退社の翌日(1970年12月頃) からカードを書き始めたかのようだが、自筆「カード」は1963年4月にはすでに書かれている。
インタビューの中で、秋山駿はノートからカードへと変化した理由を〈忙しい〉ためであったと述べた。内面の問題と現実の問題とを1冊ごとに書き分けていたノートでは、次第に二つの問題が〈混ざり〉、書き方に困難が生じた。そのためにカードを採用したという。頁が分断され、同一のものを表と裏で書き分けられるカードは、報知新聞社に勤める傍ら『文学者』に批評を発表しはじめていた当時の生活に合致した記録方法だったのだろう。ノート、カードを経た現在、こうした思考の記録は「紙切れ」に書き記しているとのことである。
(山本真也子)
<武蔵野女子大学との関わり>
~秋山駿「女子大へ行って」より
ことしの四月から武蔵野女子大学に奉職した。女子大ということに好奇心があった。私は長い間、男も女も同じ生き物であるとばかり考えてきたが、いやいやそうではなく、女と男は生の感覚がぜんぜん違う。そう思った方が人間や人生について考えが深くなる、と気づいたのはここ五、六年のことだ。それに乏しい見聞では、女の方が男より文学(小説)に鋭かった。
近代小説演習とか現代小説演習という科目がある。私はなんとなく作家が育ってもらいたいし、それには短編の良さを知ってもらいたかったので、阿部昭『短編小説礼讃』(岩波新書)をテキストに選んだ。ところがこれが品切れだった。あわてて昨年夏に興味深く読み、これは充実した一冊だなと感じた「新潮」七月臨時増刊「新潮名作選 百年の文学」を使うことにした。
小説欄の目次は、第一が鷗外「身上話」であり第二が秋声「和解」である。(…)鷗外のときは、ある年配の聴講生の女性が、作中に出てくる「根掛」「翡翠の釵」「手柄」などの実物を教室で開示してくれたので、大いに勉強になった。それに五十年も前に読み飛ばしたような作を、改めて生徒さんと読み直してみるのが新鮮だった。
しかし、改めて読んでいると、思わず疑問や不審の念が続出してくる。
(…) - 一歩を踏み出せば新たな場面が生ずる。
(『三田文学』1997年8月)
秋山 駿(あきやま しゅん)
1930(昭和5)年、東京生れ。早稲田大学卒業後、報知新聞社入社。1960年、評論「小林秀雄」で群像新人文学賞を受賞。1963年、『想像する自由』『内部の人間』が三島由紀夫に激賞されて注目される。『人生の検証』で伊藤整文学賞、『信長』で毎日出版文化賞および野間文芸賞受賞。『神経と夢想 私の「罪と罰」』で和辻哲郎文化賞を受賞。2013年10月2日、逝去。
特別インタビュー(動画) 「秋山駿とは何ものか」
批評家ではあるけれど、発想というか
事の辿り方が、どこか小説的と感じる。
黒井千次(作家)
首尾一貫して自分のスタイルを持ち、
そこに強固な哲学がある。
三田誠広(作家)
年譜
講談社文芸文庫
新潮社
講談社文芸文庫
1930年 4月23日、東京都池袋に生まれる。本名は秋山駿(すすむ)。鉄道省に勤める父登利男と、信州須坂市浄運寺の娘であった母照子の二男。
1936年 4月、池袋第五小学校に入学。父の転任に伴い、鶴見、名古屋、東京へと移り住む。
1943年 4月、都立十中に入学。1年生の時に母が結核で他界。
1944年 三鷹の日本無線にて勤労動員。この頃、友人から借りた近代の日本文学を乱読する。
1945年 8月15日、敗戦の放送を日本無線で聞く。以後友人と新宿、渋谷、銀座の街を歩き回る。この頃から、中原中也、小林秀雄、ランボオ、ドストエフスキーを知る。
1948年 4月、早稲田第二高等学院に入学。友人、清水一男宅でヴァレリー全集を乱読。
1949年 4月、学制改革により早稲田大学仏文科に移行。
1950年 この頃から、道端で拾った石ころを机に置き色々な問いかけをする。
1952年 6月、清水一男の発意で同人誌「批評派」を創刊。最初のエッセイ「石塊に はひとつの物語がある」を書く。
1953年 3月、早稲田大学仏文科を卒業。その後3年ほどの間、昼は街を歩き、夜は壁の汚点と対話するの日々が続く。
1956年 6月、報知新聞社に入社。文化部の記者となる。
1958年 報知新聞の文化部廃止により整理部に異動となる。
1959年 5月、親族との縁を断ち切り、妻法子と 東京西郊のひばりが丘団地に入居。
1960年 5月、「小林秀雄」で『群像』第3回新人文学賞評論部門を受賞。
1963年 8月、友人大河内昭爾の誘いで『文学者』に「内部の人間」を発表、11月、1958年の小松川事件への批評「想像する自由-内部の人間の犯罪一」(のち「内部の人間の犯罪」に改題)を『文学者』に発表。これが『文学界』の同人雑誌評で久保田正文の称賛を受け、三島由紀夫に認められるきっかけとなる。
1967年 1月、第1評論集『内部の人間』を南北社より刊行。
1969年 10月、「簡単な生活」を『季刊芸術』に発表
1970年 4月、「-以下は私という単純な主格の行なうとりとめのない人形劇に過ぎない」というテーマのもとに書かれたエッセイの第1作目『歩行と貝殻』を講談社から刊行。2作目『内的生活』(1975年)、3作目『舗石の思想』(1980年)へと続く。6月から「東京新聞」で文芸時評を始める。11月、三島由紀夫の自決に衝撃を受け、12月報知新聞社を辞職。
1971年 4月、日本大学芸術学部の非常勤講師になる(1979年まで)。
1972年 4月、早稲田大学文学部文芸科の非常勤講師になる(1979年まで)。11月、「簡単な生活」("The Simple Life")」がペンギン・ブックスより刊行の三島由紀夫編集"New Writing in Japan"に収録される。
1973年 5月、『秋山駿批評I 定本 内部の人間』が小沢書店より刊行。以後『秋山駿批評Ⅱ 定本 歩行と貝殻』(1975年)、『秋山駿批評Ⅲ 定本 壁の意識』(1976年)、『秋山駿批評Ⅳ 定本 内的生活』(1981年)へと続く。
1974年 1月、「週刊読書人」に「団地通信」を連載(以後毎年一回の連載を1993年まで)。6月、昔のノートの残りを活字化した『地下室の手記』を徳間書店より刊行。
1977年 1月、『読売新聞』の文芸時評を担当(1981年12月まで)。10月、「知れざる炎―評伝中原中也」を河出書房新社より刊行。
1979年 1月、東京農工大学一般教養部教授となる(1993年まで)。野間文芸新人賞の選考委員となる。
1987年 1月、『毎日新聞』で文芸時評を始める(1993年4月まで)。
1988年 1月、『簡単な生活者の意見』(小沢書店)刊行。
1990年 3月、『人生の検証』を新潮社より刊行。同作で第1回伊藤整文学賞を受賞。
1991年 9月15日から29日まで、日中文化交流協会の訪中作家代表団として、三浦哲郎団長、高井有一、黒井千次と訪中。
1995年 4月、法政大学文学部日本文学科の非常勤講師となる(1996年まで)。
1996年 3月、『信長』を新潮社より刊行。同作で第49回野間文芸賞、第50回毎日出版文化賞を受賞。
1997年 4月、武蔵野女子短期大学国文専攻・武蔵野女子大学文学部日本文学科の専任教授となる。必修授業を含めた「近代文学」「近代小説演習」などを受け持つ。7月、川端康成文学賞の選考委員となる。
1998年 3月、「婆さん―江戸の面影」を『武蔵野日本文学』に執筆。4月、武蔵野女子大学で「卒論ゼミ」を受け持つ。
1999年 3月、「『家族シネマ』―崩壊家族とは」を『武蔵野日本文学』に執筆。4月、武蔵野女子大学大学院言語文化専攻の授業「言語文化基礎講義<言語と文化>」などを受け持つ。11月15日、武蔵野女子大学市民文学講座で「三島由紀夫(2)-『仮面の告白』」の講師を務める。
2000年 3月、「『秘められた批評』という領域」を『武蔵野日本文学』に執筆。7月6日武蔵野女子大学公開講座創作のすすめ「小説教室の現場から」の講師を務める。
2001年 3月、武蔵野女子大学を定年退職。4月、ひばりが丘団地の建て替えに伴い、2DKの部屋から3LDKの都市公団賃貸に引っ越しをする。野間文芸新人賞の選考委員から、野間文芸賞の選考委員となる。
2002年 4月、武蔵野女子大学文学部日本語・日本文学科の客員教授となる。
2003年 2月、『神経と夢想―私の「罪と罰」』を講談社より刊行。同作で第16回和辻哲郎文化賞を受賞。
2004年 11月、 旭日中綬章を受ける。11月20日、武蔵野大学(旧武蔵野女子大学)公開講演会で「信長の天才性」の講師を務める。12月、胃がんにより手術を受ける。
2005年 妻法子が重い帯状疱疹を患う。
2006年 1月11日、武蔵野大学日本語・日本文学講座にて「文学の想像力」の講師を務める。3月、武蔵野大学を退職。その後、武蔵野大学付属武蔵野文学館に蔵書の一部を寄贈する。武蔵野文学館準備室では、2008年から整理を開始し、「秋山駿文庫」として保管。
2007年 3月、早稲田大学から芸術功労者の表彰を受ける。7月1日~8月3日、早稲田大学大隈記念タワーで「秋山駿・高井有一展-ふたりの「早稲田大学芸術功労者」のあゆみ」が行われる。11月8日、早稲田大学大隈記念講堂にて講演会。
2009年 2月、「『生』の日ばかり」を『群像』にて連載開始。
2010年 10月15日、武蔵野文学館準備室を訪問。10月22日~24日、武蔵野大学摩耶祭にて、武蔵野文学館準備室有志により、企画展「土岐善麿・秋山駿・黒井千次-教壇に立った文学者が開催される。
2011年 7月、『「生」の日ばかり』を講談社より刊行。
2013年 10月2日、逝去。
2014年 3月、『「死」を前に書く、ということ : 「生」の日ばかり』を講談社より刊行。11月15日、追悼シンポジウム「秋山駿とは何ものか」が武蔵野大学で開催される。この後、故人の遺志に基づき、最後の蔵書の整理をおこなう。装幀家の秋山法子とともに蔵書の保管場所の検討を開始し、武蔵野大学工学部の水谷俊博研究室に「蔵書のミュージアム」の設計を依頼。
2016年 3月、映画『ウエスト・トウキョウ・ストーリー』が公開されて、秋山法子が出演。劇中、ひばりが丘団地の一室で秋山駿を語る様子が描かれる。
2017年 3月、『秋山駿 蔵書目録』が武蔵野文学館から刊行される。旧蔵書14370冊が記載。
2018年 1月、秋山駿『小林秀雄と中原中也』(講談社文芸文庫)が刊行される。4月22日、秋山家より物心両面で支援を受けた武蔵野大学が、紅雲台東側の一部を改修した「文学館」を竣工。機関名とは区別して正式名称を「むさし野文学館:musée-bibliothèque en l´honneur des ecrivains de musashino」とする。
以上、武蔵野文学館編『土岐善麿・秋山駿・黒井千次 武蔵野の教壇に立った文学者』増補版(2011年5月)による。